〇〇さま

こんばんは、木坂です。

ここ数年ではまあまあの頻度でのメルマガ発行になります。

・・・と書いて、リアクションが分かれることでしょう。

「ええ?もう1年以上届いてないけど」

という人と

「ホントだよ、突然どうしたおい」

という人に。

何の話かよくわからないと思いますので、今回のメルマガの
1本目の記事で説明させてください。

今年初めてメルマガが届く、という人が概算で1万人近くは
いると思います

申し訳ないです。

とりあえず、本編の方に、参りましょう。

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目次

1.メルマガ過去二本分。

2.バカと大衆と幸福の関係。

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1.メルマガ過去二本分。

いやあ、不思議でした。

なんで今回少なからずの人にメルマガが届いていないのか。

「ホントにやめちゃったんですか?」

なんて聞かれること数多。

「いやいや、今年も出してるんだけどなあ・・・」

と思って首をかしげておりました。

これまでも技術的な問題でメルマガが届かないということは
ありましたが、今回のはそれとも少し違う感じで。

・・・と思って調べてみると、やっぱり不思議なことほど
タネがわかれば簡単なものですね。

単なる配信ミスでした。

実は今僕の方からメルマガ配信ができなくて、以前のように
書いた原稿を和佐君に渡して、それを代わりに配信して
もらっていました。

こちらのミスなので申し訳ないのですが、僕のメルマガ用
配信グループの名前に似た配信グループがあって、そっちだと
勘違いして配信していたようです。

ということで、実はここ数年でメルマガ登録してくれた方には、
一切届いてないという悲しい事実が判明しましたので、
新年になってお送りした2通のメルマガをPDFにまとめて
お送りします。

記事としては一本ですが、音声もたくさんありますし、セミナーの
お知らせなども含まれているので、是非目を通してみてください。

http://www.masterclasstrilogy.com/neye/m_t_c.pdf

です。

ちなみにセミナー。

メルマガを配信ミスってる間に募集は締め切ってしまっていまして
というかもう2回ほど開催していまして、すいません(苦笑)。

ただ、こそーり、しばらくは申込みリンク生かしとこうと
思いますので、ご興味ありましたら是非。

ただ、今からライブ受講のコースを申し込まれる場合、
今月23日と24日にあるセミナーと、それ以降のセミナーは
参加してもらえますが、先月行われた守コースのセミナーは
ビデオ受講ということになります。

あらかじめご了承くださいませ。

また、3点、セミナーについてご連絡があります。

1.カード決済を希望される場合、決済期限は2月18日までです。

2.銀行振り込みの場合は別に期限は設けていませんが、
僕の方でセミナーの準備と事務作業のバランスを考え、
一定以上手間が増えてきたら締め切らせていただきます。

3.多分、また近いうちにビデオ受講での申し込みは再開すると
思いますので、ビデオ受講をご希望の場合は今すぐ焦って
申し込まなくても大丈夫です。

以上ご確認ください。

セミナーの内容が書かれた(ふりをして実はほとんど単なる
レポートとなっている)PDFは

http://www.masterclasstrilogy.com/neye/l_wu_i.pdf

こちらで、申し込みフォームは

https://55auto.biz/alchemy/touroku/wus_i.htm

になります。

セミナーについて新田君と対談した音声が

http://d99whdn8z56lx.cloudfront.net/nk_s.mp3

こちらで、募集の際に僕の所に送られてきた質問とその答えは

http://www.masterclasstrilogy.com/neye/wu_qa.pdf

こちらになります。

あと、なんかバタバタしてしまっているお詫びというわけでは
ないのですが、前回のメルマガの続きの記事を下に書いてみました。

今回のセミナーの内容とも濃厚に関連していますし、
こちらも合わせて読んでいただければ嬉しいです。

それにしても2通で配信ミスが判明してよかった・・・。

ご迷惑おかけした方がいましたら、ホントにすいませんでした。

2.バカと大衆と幸福の関係。

都民の方以外には直接関係のない、でも実はみんなに間接的に
関係のある都知事選が終わりました。

まあ、結果それ自体については、特に何も言うことはありませんが、
「我が国のレベルは今こういう状況である」ということだけ、
しっかり理解して前を向いて歩いてまいりましょう。

ところで、都知事選とオリンピックという2つの話題に突如として
ぶっこまれてきた大きな話題があります。

テレビも新聞もネットのニュースも見ないという生粋の
ニュース嫌いの僕の耳にも入ってきたくらいなので、
きっとほとんどの方がご存知かと思います。

「ニセベートーベン事件」

です。

昔Nスぺにも取り上げられた“現代のベートーベン”佐村河内守さんが、
実は全く作曲を行っておらず、代わりに新垣隆さんという作曲家の方が
丸々ゴーストで行っていた、というものですね。

しかも全く耳が聞こえないというのも嘘で、その意味でも
ベートーベン的ですらなく、さらに言うと実際に作曲していた
新垣さん曰く、曲によってはマーラーをパクった、と。

もうどっからどう見てもベートーベンではなかった、という話です。

あの天下のNHKもまんまと騙されて、世間ではいろんな波紋を
起こしている、というのがイマココの状況なのかなと。

「偽物だった!とんでもない!!」みたいな気配が大部分を
占めている今日この頃だと思いますが、僕がこのニュースを耳にして
まず思ったのは、別にその盗作がどうのこうのみたいな話ではなく、

「みんな本当に自分の中に価値基準を持ってないんだな」

ということです。

僕に言わせれば、彼が現代のベートーベンかどうかは
どうでもいい話で、各自が良し悪しを判断すればよい。

誰が作曲してもいい曲はいいし、ダメな曲はダメ。

それが分からない耳と感性なら、別に音楽を云々しなければよい。

そう思うのです。

耳が聞こえないとか障害を乗り越えて作曲し続ける天才とか、
現代に蘇ったベートーベンとか、そういう音楽とは関係のない
「ストーリー」にのみ反応しているからこれだけ大きな騒ぎに
なるのだと思います。

自分の中にきちんとした価値基準がある人であれば、
こんな騒ぎとは無縁の生活を送ることができていたはずです。

この騒ぎに乗っかって振り回されている人は、一般人も業界人も
含めて、自分の中身はすっからかんです、と告白してしまった人、
という風に僕は見ています。

まあ要するに、知ったかぶりしてしまうと、後で恥かきますね、
という程度のお話なのかな、と。

さて、そんなくだらないゴシップはともかくとして。

ここからが本題ですが、この

「自分の中に価値の基準を持つ」

ということは、一体何のために重要なのか、そしてそれはどうやって
手に入れればいいのか、という話を今回はしたいと思っています。

結論から言えば、僕は「自分の中に価値基準があるかどうか」で
その人の人生の意味が変わってくると思っていますが、その理由は
至極簡単で、

自分の中に基準があるからこそ自分で人生の決断をすることができる」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

からです。

当たり前ですよね。

基準を持たないのに自分で決めるなんてことができるわけはないですから。

でも、自分で基準を持たない人にも、平等に「決断」の瞬間は日々
無数に訪れます。

何を食べようか。

何時に寝て何時に起きようか。

この店では何を買おうか。

今日はどの仕事を終わらせようか。

どの大学に入ろうか。

どの会社に就職しようか。

どのテレビをこの人にセールスしようか。

どうやって美味しいティラミスを作ろうか。

毎日毎日何度も訪れる決断の瞬間を乗り切るために、基準を持たない
人々は、誰かからかどこからか、判断の基準を借りてくる必要があります。

“判断基準サラ金”から、毎日毎日借り入れがある状態です。

それが例えば「価格」だったり「ストーリー」だったり「ブランド」
だったり「権威」だったり「口コミ」だったりあるいは「偏差値」だったり
するわけですが、何にしてもそういう

誰かが作った基準に服従して生きるしかなくなる
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

のです。

まさに、

「うまく付き合えばすごく有効なのに、実際にはほとんどの人が服従し、
支配されてしまう借金」

と似ています。

そしてそういう“他人のカネ”に寄生して生きていた人たちが、
今回のニセベートーベン事件で赤っ恥をかく羽目になった。

いや、赤っ恥をかくだけならまだいいと思います。

問題の本質は、そういう人達は「いつも」誰かの基準に
服従して生きている、つまり「自分の人生を生きていない」
ということなのです。

だからこそ、僕は「自分の中に基準を作れ」とか、
「ルールメイキングは自分でするものだ」とかセミナーで
言っているのですが、ではそれはどうやってできるものなのか、
という部分が結構難しい。

セミナーでは去年から何時間もかけて解説してきたので、
受講生は真面目に復習してくれれば理解できるはずですが、
今回このメルマガでは、自分の中に基準を作るために
必要不可欠なことのお話をひとつしたいと思います。

当然、ただぼーっと過ごしていてもそんなものは突然降ってこないし、
誰かが教えてくれるものでもありません。

あるいはベートーベンを100回聞いたら自然と自分の中に
「音楽についての価値の基準」ができている、といった類いの
ものでもありません。

何かに対する価値の基準を自分の中に持つというのは、
僕の感覚では見つけるものでも拾ってくるものでも
獲得するものでもなく、

必死こいて作り上げるもの
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

という言葉が一番しっくりきます。

そして、この「作り上げる」という作業を支えるのが「理解」です。

理解の深さ、つまりどのレベルである対象を理解しているのか、
それが土台の全てではないのかなと思うのです。

先日のセミナーで実際に出た質問の一部に、

「自分はビートルズに感動したことがない」

という話がありました。

僕はそれに対して

「僕も全く好きではないし感動したこともない。ただ、
ビートルズのすごさは理解できる」

と答えました。

それはなぜなら、僕自身が音楽をかじっていて、人よりは
知識と経験があるからです。

そういう知識と経験がベースになって、それと比較することによって、
ビートルズという音楽が「理解」できるのです。

理解すれば、彼らのすごさは分かります。

ビートルズのすごさはドビュッシーのすごさに少ーしだけ似ていて
僕はドビュッシーもそんなに好きではないのですが、それでも、
彼の特質というか、強みは何となく理解できていると思います。

だから、ビートルズとドビュッシーというアナロジーが
僕の中では成立する。

で、こういう「理解」のあと初めて「好みの問題」に突入するのです。

モーツァルトはすごい、でも好きじゃない。

ビバルディはすごくない、でも好き。

ベートーベンはくどい、でも好き。

マーラーはくどすぎる、でも癖になる。

ドビュッシーとビートルズはすごいけど、興味が出ない。

例えばこんな感じでしょうか。

以前ある人と食事をしていた時に小林秀雄についてどう思うか、
と聞かれ、僕は一言

「文学的読書感想文を書くおじさん」

と答え、ものすごく感心されたことがありますが、このように
一言で端的に特徴を表すという作業は、「理解」に支えられた
判断がベースになっていないと、ただの悪口になってしまいます。

リスペクトのないものまね芸が不快なのと同じことですね。

リスペクトは、一般には単に気持ちの問題だと思われているようですが、
僕はそんな曖昧なものではなく、厳密な「理解」によって表されるものだと
思っています。

カントをリスペクトしているなら彼の著作を徹底的に理解する
姿勢を見せなければいけないし、森進一をリスペクトしているなら
徹底的な理解の上でものまねをしなければいけない。

理解が不十分なものまね、理解が不十分な皮肉、そういったものは、
単に不快な芸風でしかありません。

それはリスペクトの不在、つまり相手をバカにしていることを
意味するからです。

目の前の相手をきちんと丁寧に理解しようという姿勢を“現実に”
見せること、それが相手を尊重するということです。

にもかかわらず、大衆というのは、そういう繊細な部分を一切無視して、
いきなり好みの問題から入ります。

目の前の人が「実際に」何を言っているのかを理解しようとせず、
自分の好き嫌いだけで一方的に判断し、それだけでは飽き足らず
「好きな人=善人」「嫌いな人=悪人」というカテゴリーを
無意識に作り出していきます。

興味があるのは目の前の相手ではなく、いつも自分の世界だけ。

つまり、大衆というのは、目の前の人を「ないがしろにしている」
という意味で、いつも誰かをバカにしているのです。

今見たように自分の「好き嫌い」という色眼鏡から自由ではないので、
好きなのか嫌いなのか、脊髄反射的に受け入れられるのか反発するのか、
というものと対象の良し悪しを混同し判断してしまう傾向にあります。

簡単に言うと、大衆というのは、自分の感情的な好みと、
対象の客観的な評価を、分けて考える能力がないのです。

『大衆の反逆』で有名なオルテガが

「(大衆が何か本などを読む場合)それは何かを学ぼうと
読むのではなく、その反対に、自分が頭に詰め込んでいる凡俗な
知識と食い違うことを見つけたら著者を断罪してやろうとして
読むのである。」

と述べている通りで、大衆というのは、

「自分の中にある感情的な好き嫌い」

に一致しない部分を探し、それを叩きまくるために本を読むように
無意識がセットされています。

目の前のものをバカにするだけでは満足せず、攻撃まで加え始める
わけですね。

「自分の好き嫌い」と「書かれていることの客観的な内容と価値」
区別できないので、本を読んでも読んでも新たな学びが残りません。

自分の好きと異なるものは「間違い」として断罪の対象ですし、
そのため自分にとって都合のいい箇所しか記憶に残らず、著者の主張を
「悪意なく」歪曲して理解します。

そうして自分の偏った世界観が強化される、別の言葉で言えば
「どんどん自分の殻に閉じこもっていく」ことになる。

もちろん、この現象は、本に限らず、全てのシーンで見られることです。

今思うと、僕がこういう人間としての陥穽から相対的に自由で
あれたのは、大人になってからの訓練もありますが、子供の頃の
母親の教育にその秘密があったのかなと思います。

例えば、僕は幼稚園の頃、嫌いな食べ物が食事に出た時、
無意識に

「これ美味しくない、マズイ」

とガイジンのようなことを言っていました。

すると母親がすぐに

「“美味しくない”じゃなくて“嫌い”でしょ。このご飯が
美味しくないかどうかはあんたが決めることじゃないの」

と言っていたものでした。

子供の僕は「どっちも同じだろ」と思っていたのですが、
今はその明らかな違いが理解できます。

「美味しくない」というのは食べ物に内在する属性ですが、
「嫌い」というのはこちらの主観です。

ですから、食べ物や味について知識も経験も乏しい僕には
目の前にある食べ物の客観的価値を云々する資格はないけれど、
自分の好みについて意見を表明する資格はある。

母親は、きっとこのような言葉で理解していたわけでは
ないと思いますが、直感的にそのことが分かっていて、
その区別をきちんとしなさいと、自分の息子に教えていたのだと
思います。

いやあ、当時は心から鬱陶しかったけど、今となっては、有難い。

大衆というのは、自分の好き嫌いが全てであり、自分の価値観が
世界の中心であり正解であるような世界に生きている、いわば
精神的幼児のことです。

口癖は「ヤダヤダヤダ」です。

食べたくないものは食べない、見たくないものは見ない、
したくないことはしない、嫌いな子とは遊ばない、こんな世界は
ヤダヤダヤダ。

だってなんだか、だってだってなんだもん。

大人になればもちろん口には出さないでしょうが、心の中は
こういう言葉で占められています。

言い換えれば、僕が子供の頃母親に教えられたごく基本的な
区別すらできない、4歳の頃の僕と同じレベルの知能しか持たない
生き物だということです。

物事には常にいい面悪い面があり、100%好きなものなんて
この世にあるわけはないので、こういう「粗探し」をすれば
必ず何かは見つかります。

週刊誌やスポーツ新聞と同じで、初めから叩くためにネタを
探すのであれば、絶対に何か見つかるわけですから、大衆というのは
それを受けて

「ほら、俺が言っている通り、世の中はダメなことだらけだ!」

と、ますます自信を深めてしまうわけです。

そういう不毛なことをしていては進歩も何もあり得ないので、
「自分の主観」と「客観的な価値」を分けて考えましょう、
というのが、“大人”の暗黙のお約束だったと僕は思うのです。

有名な、民主主義を象徴する言葉がありますね。

「私はあなたの意見には反対だ。しかし、あなたがその意見を
言う権利は全力で守る」

と。

ところが、大衆はこうなりません。

「私はあなたの意見には反対だ。なぜならあなたは間違っているから。
あなたは悪しき敵であり、私の意見に賛成しないなら、今後徹底的に
叩くことにする」

となってしまう。

子供というのは純粋に好き嫌いでヤダヤダ言ってますから
まだかわいいものですが、大人になるとそれを「正義」とか
「正解」と無意識にすり替える傾向にあり、性質が悪くなります。

つまり、本当は子供と同じレベルの「ヤダヤダ」なのに、
口を開いて出てくるのは

「俺が正しくてあいつが間違っている、なぜならば・・・」
「自分はみんなのために、未来のために反対しているんだ」
「あいつらは私利私欲で動いているが、自分は違う、なぜなら・・・」
「子供の未来を守るためにはこれが必要だ、あいつらはそういうことを
考えていない金の亡者なんだ」

みたいな、おっと、妙に反原発派の人達が言ってそうな言葉が並んで
しまいましたが、要は、チンピラや輩と同じということです。

「モンスター○○」と呼ばれるような人たち、あれは特殊な
キチガイではなく、ごく一般的な大衆が、より純化された大衆に
なった程度のものだと僕は理解しています。

何でもいいから自分の価値観と違う部分をみつけて
難癖をつけることが目的になってしまっている、
そういう気質が大衆には根深く存在しています。

以前のメルマガで言えば、左翼的な、とりあえず反対しておけばいいや
気質ですね。

現実を受け入れ、それを踏まえた上で自分を進化させる方向に
向かうのではなく、現実を拒否し、呪い、現実の方を自分に
合わせるよう強要する、そういう、ニーチェの言葉で言えば
「ルサンチマン」にまみれた人、オルテガの言葉で僕が好きな
言葉を使うなら

「最新の野蛮人」

こそが、大衆の実態なのです。

その結果、

1.独りよがりで残念なことに
2.自分の判断に自信が持てず残念なことに

という2通りの残念なことが現実化してしまうわけです。

大衆や、彼らが言うことというのは、独りよがりだからどうしても
寒く薄っぺらい無教養な印象になります。

それをうっすら自分でも感じる上に、そもそも判断の基準が
“他人からの借り物”であるために自分の判断に本質的な自信が
持てず、それを隠すために妙に断定的な口調になったり、誰かを
否定することでしか自分の正当性を主張できなかったり、大声で
叫ぶ式のメッセージになってしまったりしていきます。

それが世に聞く(聞かないと思うけど)大衆スパイラルです。

脱バカ、すなわち「脱大衆」するためには、まずは「理解」に
徹底する。

「理解」できたと思ったら、初めて個人的な判断をすればよい。

こういう二段階を経ることが不可欠です。

あとは、「理解できなかったら判断保留する」という勇気も
必要ですね。

いつか理解できるその日まで結論を出さないというのも、
知力のひとつですから。

このことは、実はオルテガみたいな哲学者が想像で
語っていたりするばかりではなく、最近は脳科学的な
実験によってもいろいろ確かめられてきています。

一番わかりやすい実験では、ポジティブな言葉と
ネガティブな言葉のどちらに反応しやすいか、またその傾向が
人生にどういう影響を与えるか、を調べたものがあります。

実験自体は簡単で、被験者には「偉大」とか「輝き」とか
ポジティブな単語と「悲惨」「残酷」などのネガティブな単語を
ランダムに見せていき、その時の脳の反応を調べるというものです。

これは脳の反応なので、意識以前の、純粋にメカニカルな反応を
調べる実験だというところは間違えないようにしてください。

もちろん多くの人が何となく予想する通り、ポジティブな言葉に
特に速く反応する人とネガティブな言葉に速く反応する人に
分かれるのですが、興味深いのはその後です。

ネガティブな言葉に脳が素早く反応してしまう人というのは、
まあ先ほどの話で言えば「叩くためのネタ探しが好きな大衆性が強い人」
ということになるでしょうが、そういう人は、ポジティブな言葉に
反応する人に比べて

・友達が少なく
・家族関係も悪く
・日々楽しくもなく
・他者に対して非寛容で
・収入も低い

傾向が見られ、要するに「総じて人生の満足度・幸福度が低い」という
結果が得られています。

「大衆」というのは、自らを不幸にする、真の意味で不幸な存在だ
ということです。

僕が個人的に嫌いだから、これだけ悪く言っているわけではないのです。

いや、もちろん好きか嫌いかで言えば、大衆性が強い人は僕は
好きではありません。

でもそれは、「もったいないことをしている」から好きになれないのです。

「ちゃんと生きればあなたは世界に何らかの価値を生み出し、
貢献できるのに、そしてあなた自身楽しく生きられるのに、
なぜ無駄な生き方をするのか」

と思ってしまう。

大衆の皆さんにしてみれば大きなお世話なのかもしれませんが、
この辺は性格なので、どうしようもない部分だと思って
(今のところ)諦めています。

さて、ちょっと大衆についての話が長くなりましたが、
僕がお話ししたかったことをまとめると、以下のようになります。

1.「脱バカ・脱大衆」するための第一歩は、個人的な好き嫌いと
客観的な価値・評価を分離する訓練です。

2.そして次に、客観的に対象を「理解」する努力を徹底して
行うこと。

3.そうすることで自分の中に「価値の基準」が作られてきます。
これは「価値観」というものから主観性を抜き取っていった、
判断の尺度になる重要な道具です。

4.これができてきて初めて、自分の人生を自分で決断して、
つまり自分として生きていくことができるようになります。

5.それができない「大衆性の強い人」は、総じて人生の満足度や
幸福度が低い傾向にあるので、是非その負のスパイラルから脱して、
自分が望む人生を生きられるようになりましょう。

最後に、この話を理解するとてもいい例がありますので、
またしても脱線しますがお話しします。

以前、僕はある友人に頼まれて、腕時計を見に行ったことがあります。

友人に頼まれて見に行くというのも不思議な状況なのですが、要するに

「あるアンティークの時計を買おうと思っていて、メーカー証明書などの
書類も一式揃っているし、詐欺的なモノではないと思うが、高いベンツが
買えるくらいの値段なので、念のため木坂大先生の印象をお聞きしたい」

ということだったわけです。

「僕は時計などそんなに詳しくないですよ」と一応伝えたのですが、
「印象を話してくれればそれでいい」と食い下がられたので、
一緒に見に行くことにしました。

その時計は、オークションなどでもめったに出ない貴重な個体で、
1940年代のアンティークもの、状態も素晴らしく、確かに
証明書の類は一式揃っていて、メーカーに電話してもそれを
保証する旨、きちんと断言してくれた個体でした。

これだけの条件の案件は10年に1回あるかないかなので、
普通はコレクターであれば飛びつくと思うのですが、その人は
冷静になって、じっくり個体を観察して、その結果、僕を呼んだのでした。

販売店の人は

「こんなきれいなものは滅多に出ない、既に問い合わせもいくつか来ている」

というお決まりのセールストークで煽ってきますが、
僕はその時計を見て、違和感を感じました。

でも、何の違和感なのか、初めはよくわからない。

「オーラがない」

というふんわりしたことしか言えない、そういう違和感でした。

僕が以前見た同年代の、同じメーカーの同じモデルの時計は、
明らかにオーラがあって、時計に詳しくない僕でも圧倒される
何かがあった。

でも、この個体には、肝心のそれがないのです。

一応、この段階で依頼主(?)の友人には小声で

「違和感はある、オーラがない」

とだけ伝えました。

彼は、黙ってうなずいていました。

元々彼も違和感を感じていたのでしょう。

でなければ、わざわざ僕を呼びだしたりしないでしょうから。

違和感の源泉を突き止めたくて、僕はじっとその時計を見続けます。

これは別に友人のためというよりも、8割がた僕の気質によるものですが。

友人が店員と話して時間を稼いでいる間、もしかしたら30分くらい
見ていたかもしれません。

あーでもないこーでもない考えながら、ひたすら眺めます。

すると突然、

「ああ!」

という感覚が訪れます。

僕は店の人にルーペを貸してもらって、自分の立てた
仮説を検証しました。

こうして、僕の違和感の源は、見事突き止められたのです。

犯人は、文字盤の、インデックス(時間を表す数字の代わりに置いてある
しるしのようなもの)でした。

ルーペでじっくり見てみると、4時から8時のインデックスが、
本当に少しだけ、均等に配置されていないのです。

角度で言えば、1度もずれてなかったと思います。

でも、確かにずれている。

もうちょっと言うと、ルーペで数倍に拡大してみると、配置だけでなく、
そのインデックスの向き自体も、ほーんの少しだけ、歪んでいました。

どちらもルーペで数倍に拡大して、やっと認識できるくらいの、
あまりに小さな歪みです。

その、明確には認識できないほどの微細なずれが、違和感となり、
オーラを帳消しにしていた、ということです。

もちろんメーカーは本物を保証していますから、偽物ということでは
ないと思いますし、ほとんど誰も気が付かないと思います。

実際これはオークションでそのお店の人が落としてきた個体で、
つまりプロでもわからなかったくらいの微妙なものなわけです。

だけどその一方で、文字盤のインデックスの配置と向きは、
「確かにおかしい」のです。

古い時代のもので基本は手作りですから、単純な製作上の
誤差かもしれません。

ルーペで見ないとわからないような小さなパーツを、寸分違わず
配置していくことがこの上なく大変な作業であったことなど、
誰でも想像がつく話です。

本物保証がついているのだから、これを気にせず購入するのも
アリだとは思いました。

が、結局友人は買いませんでした。

彼の真意は聞きませんでしたが、彼は本物保証という「外部の」
基準よりも、自分の違和感を優先させ、そしてそれを検証した
僕の働きを尊重してくれたということです。

ちなみにその時計は約半年後に売れました。

「半年後」というのが面白いなと僕は思っていて、あれがもし
「何の違和感もないもの」であれば、1日で売れたと思うのです。

アンティークの時計とは、そういう世界ですから。

おそらく、半年の間、目利きたちが何人も見に来ては見送り、
を繰り返し、目利きではない人がきた時に、成約したのだと
思います。

「本物、メーカー保証、価格」

という外部の基準のみで判断する、“大衆性の強い”コレクターが
きた時に。

僕の友人の高いベンツ一台分の出費を防いだのは、友人の
「違和感」を感じる感性と、僕の「理解」しようとする徹底した
仮説・検証の作業でした。

友情出演的な感じで、タダ働きでしたけど。

誤解しないでほしいのは、僕が「時計オタクで、異常に詳しかったから」
それが分かったのではない、ということです。

時計についての知識は人並みです。

でも、自分の中に価値を判断する基準はあって、それに照らした時に、
違和感があった。

だから徹底してその違和感を「理解」しようと努めた。

それによって、一定の結論が得られたのです。

もし僕らが「外部の」基準で生きてきた人だったとしたら、
違和感も感じることなく、きっと飛びついて買っていたのでしょう。

「本物だよ、メーカーが保証してるんだし、それに状態もすごくいい、
価格もこの個体にしては悪くない、何を迷うことがあるのかい」

という具合で。

この“アドバイス”がまともに聞こえてしまうというところに、
この“外部からの基準のみでできたアドバイス”にそれなりの
説得力を感じてしまうというところに、僕らの「大衆性」を
見ることができると思います。

こういうアドバイスを反射的に「お前の中身は空っぽか」と感じられる、
そういう感性を作り上げていくこと、それが、今回僕がお伝えしたかった
メッセージです。

さてさて、こういう「仮説・検証の作業」とか「理解のための云々」とか
「自分の中の価値の基準」とかいう話を聞くと、なにやら「哲学者のようだ」
ということで小難しく考える人がいるかもしれませんが、実はそんなことは
全くありません。

実を言うと、僕はこの「理解を深め」「脱バカする」プロセスを
一番生々しく毎日毎日当たり前のように実践しているのは、
一般的な生活を送る女性なのではないかなと考えています。

というのも、女性は、2つの意味で、“理解を深める”資質に
男性よりも恵まれていると思うからです。

1.壮大な無駄をものともしない
2.果てしない継続性がある

という2つの点において。

次回、これらについて説明していきたいと思います。

期せずして続き物になってしまったので、そんなに間を開けずに
発行する意思はあります(笑)。

すこーしだけ期待してお待ちくださいませ。

ではでは、今回はこの辺で。

何か質問や感想等あればこのメルマガに返信してください。

ありがとうございました!

木坂