〇〇さま

ども、こんばんは、木坂です。

一国の首相が辞め、幹事長も辞め、いよいよ木坂も引退か、
などとは誰もささやかない今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

約8か月前、民主党があまりに大差で政権を取った時、

「しょーもな」

とこのメルマガで書きましたが、この8ヶ月間いかに
「しょーもな」であったか、この終わり方がいかに
「しょーもな」であるか、ようやく誰の目にも明らかになりました。

セミナーなどでは「あんな政権が長続きするはずないだろう」とも
言っていましたが、案外長続きして少し驚いているくらいです。

当時僕が何を言っているのかよく理解できていなかった人も、
今はヒシヒシとわかるのではないでしょうか。

ただ、勘違いしてはいけないことが一つだけあります。

別に、民主党がしょーもな、ではないんですよ。

いや、自民も民主も又吉イエスもみんなしょーもなですが、
実際一番しょーもな、なのは、我々国民、です。

「長続きしない」と言ったのは、民主党がしょーもな
すぎるからではなく、しょーもなすぎる我々が選んだ
政権だからです。

そんな政権、どうやって長続きするんですか。

僕はたまに言うのですが、ある国の民度というか、
国民のレベルを知りたければ、その国の政府や指導部を
見たらいいのです。

民主主義の国であれば、国民のレベルがよく反映されています。

レベル、というか、気分、というか。

鳩山内閣にせよ、麻生内閣にせよ、小泉内閣にせよ、
我々はああいった人たちに代表されるようなしょーもない
レベルにある、ということです。

独善的な力強さに酔いしれて「ぶっ壊せぶっ壊せ」と
思っていた次の日には「ちょっと言い過ぎちゃったなあ」と
弱腰な首相を選び、かと思いきや漢字が読めないとか
バーで高い酒飲みやがってと揚げ足を取ってニヤニヤしたかと
思ったら宇宙人を首相にして支持率8割近くから一気に2割代まで
暴落させる。

政治はダイエットじゃないんだから、あっちふらふらこっちふらふら
されたら、他ならぬ僕ら国民が一番困るわけですよ。

テレビ見ながらゴロゴロして時の政権を批判しているような奴が
一番しょーもないんですね。

テレビに映ってんの、いつもまさにあんただから、と。

当時も書きましたが、我々は少し気を引き締めた方がいい。

もっと言えば、頭を使う努力をした方がいい。

政治も今日の晩御飯も、同じくらい我々の生活に密着した
ものなんですよ。

今はピンと来ないかもしれませんが、これもそのうち
実感としてわかります。

その時までに、騙されたと思っていろいろ学んでおいた方が、
いいと思います。

いらん老婆心かもしれませんが。

さてさて、もう前回のメルマガがいつだったかの記憶もないほど
1000億光年彼方に記憶が飛んでいますが、そんなことは
気にせず今日も元気に書いていきたいと思います。

1つめの記事は純粋なお勉強記事、2つ目の記事は
新しいサービスの紹介を兼ねた記事です。

お好みに応じて、読んでくださいませ。

ではでは、早速いきましょう。

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目次

1.美徳としての中途半端。

2.「基礎」ってなんだろうか。

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1.美徳としての中途半端。

「何屋さんですか?」

というのは、僕が聞かれる質問の中でもトップ5には必ず
入るほど聞かれる質問です。

何屋であるか、というのは、つまり本職は何か、肩書は何か、
専門は何か、ということでしょう。

少し前親戚一同集まった場でこの質問をされ、あれこれ誠心誠意
言葉を尽くして小一時間程度説明した結果、

「つまりピン芸人ってことね」

という結論に落ち着いた時はさすがに衝撃でしたが、
あながち間違ってはいないのかなとも思います。

というのも、一人でいろんなことをやってはいるけど、
結局自分でも何屋なのかよくわからないからです。

僕みたいなダメ人間をごくごくたまあーーーに社会的に偉い人が
訪ねてくることもあるのですが、僕の事務所の書棚を見て必ず
こう言います。

「私は書棚を見れば大体その持ち主の人となりがわかるのですが、
さて木坂さんは全く分からない」

と。

そんなに変な本ばかりあるわけではないし統一感がそんなにない
わけでもないと思うのですが、特に年配の人ほど、みんな
こう言うのです。

この事実が、僕が何屋なのかよくわからないということを、
バックアップしてくれているような気もします。

そんなもんバックアップされても困るっちゃあ困るのですが。

たとえば僕がマーケティングの専門家であったなら、書棚は
マーケティング関連の本がメインを占め、その他関連書籍が
パラパラと、という感じになるでしょう。

僕が哲学の研究者であれば、書棚は自分が専門とする
哲学の専門書がメインを占め、関連書籍や関連論文がパラパラと、
といった感じになるのでしょうか。

しかし僕は今、ビジネスについてのセミナーをやった翌日には
カントを読むセミナーを開催し、かと思えば情報収集や分析について
話したりもする。

と思えばスピリチュアルのセミナーを開いたり、筋トレや栄養学の
話をしたりする。

コンサルをしているかと思えばセミナーをし、セミナー講師かと
思えば文章を書いて飯を食ったりしている。

こんな生活を何年も続けていると、さすがに書棚の雰囲気は
だいぶおかしくなってくるのかもしれません。

強いて言えば、何でも屋、でしょうか。

そういえば予備校の講師をしていた時も、

「何を教えているのですか?」

と聞かれると困っていました。

なぜなら、理科以外は全て授業を持っていたからです。

英語、数学、世界史、日本史、地理、公民、国語、小論文・・・。

面白いところでは、宅建の授業を担当したこともありました。

宅建持ってないのに(笑)。

「宅建なんて持ってないですよ」と拒否しようとすると、
「そんなの別にいいから」と一蹴され、めでたく講座を
担当することになったわけです。

仕方ないので宅建を少し勉強してみると、どうやら民法の基本的な
部分を押さえておけば、あとは演繹的に答えがわかりそうだ、
ということはすぐに理解できました。

なので、まあ問題なく授業自体はこなしていたわけですが、
今にして思うと随分危ない橋を渡っていたなあという感じです。

そして結局、僕はいまだに宅建を受験したこともありません(笑)

こういうのを、よい言葉で言えばオールマイティー、
しかし実態としては器用貧乏、と呼ぶのでしょう。

中途半端もん、と自分のことをたまに表現することがありますが、
それは卑下しているわけでも謙遜しているわけでもなく、
実際そうだからそう言っているだけなのです。

そして、少しだけ、その中途半端さに誇りを持っていたりします。
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中途半端だからいい、ということが、現実にはあるような気がします。

たとえば僕のマーケティング理解は、限りなくセオリーから
外れており、ドラッカーにせよコトラーにせよマズローにせよ
ポーターにせよ誰にせよ、中途半端にしかその著作に目を通して
いません。

どちらかと言うと、理論半分、あとは現場で、という感じで、
おおよそ、我流と言ってもいいくらいの乱暴なものです。

理論が先にあるんじゃなくて、現実があって、その場で
役に立つ理論があるなら使いましょうか、というスタンス。

ダイレクトレスポンスマーケティングという領域に限定しても、
やはり王道ではありません。

いや、王道ではない、というと語弊があるのですが、一般に
言われていることとは違う風に聞こえることをよく言う、
くらいの意味合いです。

だけど、結果が出ます。

また一方で、哲学の理解も我流に近い。

確かにテキストを読解することなどは10代の頃からから延べ数年
真剣に取り組んでいますが、それでも専門に何十年も研究している人の
足元にも及ばないでしょう。

全著作を読破した、なんて哲学者もたぶん皆無だと思います。

しかし「哲学者研究」という意味では中途半端かもしれませんが、
「哲学をする」ということに関しては、専門家の先生よりも良く
わかっていると思います。

つまり、生きる上で意義と意味をもつような哲学の学び方です。

どちらにしても、僕の生み出すコンテンツというのは、
その中途半端さのおかげで、ユニークなものになっているのでは
ないかと最近感じるんですね。

マーケティングにせよ哲学にせよ、その道の専門家の先生方には、
僕の仕事は決してできないでしょう。

なぜなら、彼らは立場が固まっているし、何より専門的に
研究しすぎています。

それはつまり一般の感覚からの乖離を意味し、
もう我々一般人と共通の言葉で会話をすることが
ほとんどできなくなっているということです。

また、その学んでいることを現実に、実際に生きている
この世界に活かす意思が、ほとんどありません。

それ自体が、その研究自体が、目的化しているのです。

それでいて権威主義的で、長いものには基本的に巻かれるため、
アカデミズムの批判精神や、知識人としてあるべき「権力への抵抗」が、
ほぼ失われてしまっている。

だから、僕みたいに社会的無法者で自由な立場の人間が
ちょうどいいのです。

専門的に研究しているわけでもなく、立場的にしがらみが
あるわけでもない。

「厳密さ」よりも現実に活かすという視点から学び、再整理していく。

そういうことをできる人が、僕は社会に一定数必要だと
思っていますが、不思議なことに今の日本には見当たりません。

たとえばポール・ラザースフェルトという学者などは「ミドルマン」
という言葉を作り、これと同じようなことを志向している日本人の学者も
いるようにはに見えるのですが、個人的に言わせてもらうと、学者が
言う限りそれは失敗した学者であって、僕が目指しているものとは
違うのです。

「難しいものを簡単に、イメージ化して」などというものを
目指しているあたり、既に僕とは相異なる発想です。

「失敗した」と言っても別に彼らのやっていることや彼らの能力が
問題なのではなく、単純に目指しているものが違う、ということですね。

ミドルマンとしての中途半端さと、僕の中途半端さは、その意味が
異なっていると、僕は思います。

たぶむ。

僕はどちらかというと、翻訳者のような仕事をしているのかなと最近
感じることがあります。

普通に生きていたら決して読むことのできない哲学書を、
日常語に翻訳して伝える。

その哲学を「道具」としてとらえて現実にいかに活かすか、
いかに善い世の中を作っていくのに役に立つかを伝える。

表面的には「売上げアップ」しか目的がないような
マーケティング理論を、人間的な意味合いに翻訳し、伝える。

机上の空論と一蹴されるような理論を実践的な形に翻訳して伝える

そういう、コンバーターみたいな役割を果たしているような気が、
最近ちょくちょくします。

まあ、だからなんだ、ということもないのですが、僕はその点に、
少しだけ誇りを感じるのです。

専門的な、特権階級の世界と、一般的な我々の世界の間の橋になれる。

新渡戸稲造が

「願わくば我太平洋の架け橋とならん」

と言った気持ちが、ほんの少しだけ理解できる気がします。

新渡戸稲造と僕を並べて比較してしまっては彼も草葉の陰で
泣いていることでしょうが、とりあえずその涙は見なかったフリして、
少なくとも僕が架け橋のまねごとみたいなことができているのは、
突き詰めていくと、中途半端さゆえのものなのではないかと
思うのです。

専門にも行きすぎず、かといって一般的な日常にどっぷりでもない。

僕に与えられた役割というのは、この専門にあえて行かない、
でも日常に埋没もしてはいけない、ということを要求している
気がします。

そんなこんなで、なんかいろいろ書きましたが、つまるところ
僕がこの記事を通して伝えたいことというのは2つあります。

ひとつは、

「専門家になりなさい」は、真理ではありませんよ
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ということです。

ビジネスの世界では、非常にしばしば、

「専門家にならなければならない」

ということが言われます。

何でもやろうとするからダメなんだ、自分の専門を決めて、
そこにフォーカスしなさい、と。

絶対的に間違いだとは言いませんが、僕はあるセミナーで、

「専門家に“しか”なれないのは、能力が足りないからだ」

と言いました。

専門家、とビジネス書などが言う場合に、その「専門性」は実は
大したことはありません。

一生をかけてカントを研究するような、人生をかけて何かを
研究するような、そういう意味での専門性は全く念頭に置かれて
いないからです。

誰でも2、3年くらい真剣に勉強したらなれるレベルの専門性を
意味している。

であれば、専門家に「しか」という言い方をするのが、妥当でしょう。

2、3年の勉強でなれる者になって満足するのであれば、また
能力的にそれしかなれないのであれば、それは「能力不足」と
言わざるを得ないと思います。

その意味での、そのレベルの「専門家」であれば、せめて
5つ以上は専門の領域をもっていないと、起業して食べていくとか、
人にものを教えて食べていくとか、そういうことはできないと
思うんです。

ですから、

「専門家になりなさい、ジャンルを絞りなさい」

は、一見もっともらしいのですが、僕に言わせれば知的怠慢な人の
逃げ口上です。

何かの研究者でない限りは、専門家になる必要などこれっぽっちも
ありません。

中途半端もので十分なのです(「専門家になりなさい」と一生懸命
言っている人のほとんどは、中途半端もんにすらなれないのが現実です)。

ただ、当たり前ですが、手を抜け、適当にやれ、楽をしろ、
と言っているのではありません。

たぶんここで言う中途半端もんへの道は、ものすごいしんどい道に
なると思います。

ものすごいしんどい道を歩いている中途半端もんの僕が言うのだから、
たぶん間違いないと思います。

だけど、その道を頑張って歩きましょう、まやかしの専門家など
目指さないようにしましょう、というのが一つ目です。

二つ目に伝えたいことと言うのは、

中途半端もんにも、大切な役割があるんですよ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ということです。

まあ、自己正当化と言われればそれまでですが、それでも
あえて言いたいと思います。

中途半端なやつにしか、できないことというのがあるのです。

中途半端なやつにしか、わかってあげることのできない
苦しみや悩みがあるのです。

ですから、たまに「自分には能力がなくて」とか
「自分は何も取り柄がなくて」とか「自分はこれといった知識も
持っていないし」というような悩みを耳にすることがありますが、
特に気にすることはないんですね。

そんなしょーもないこと悩んでる暇があったら何かやれ、
という面もあるし、そういう中途半端な立場にいるからこそ
できることがある、という面もあるのです。

もし中途半端が悪い、とすると、極端な話、全人類が悪いことに
なります。

歴史上の偉人たちも皆、見る視点によっては中途半端です。

つまり、中途半端かどうかは、見る視点がどこにあるかに
依存するわけですね。

完璧主義というのは、時に重要ですが、多くの場合は、
何ももたらしません。

そんなイデアの世界を求めて彷徨うよりは、今自分にできることを
精一杯やる方が、よっぽど生きている意味があると思います。

中途半端を美徳ととらえれば、世界がひっくり返るのです。

いや、本当に。

・・・以上が、僕が伝えたかったことです。

「中途半端」というととにかく悪い印象の言葉ですが、
最近僕は見直してきている、だからあなたも見直してよ、という
押しつけがましい記事でした。

何かのきっかけになれば。

2.「基礎」ってなんだろうか。

ここしばらく、基礎的なこと、初歩的なこと、最初の一歩、
0を1にする、何でもいいのですが、そうよく言われることとは、
一体何なのだろうかと考えることが多かったです。

「基礎的なこと、初歩的なこと=簡単なこと、誰でもできること」

では当然ないだろう、ということはわかるのですが、では
基礎や初歩、基本や最初の一歩というのはつまるところ
一体何なのか、と。

そもそも論として、簡単とか難しいとか、わかりやすいとか
わかりにくいとか、そういうことからして、よくわからないではないか、
ということに思い至り、悪戦苦闘。

悪戦苦闘しなくてもいいような気もするのですが、その辺は
職業柄なのか性格なのか、一度バトルが始まってしまうと、
そう簡単には終わらない、終われない。

そんな悪戦苦闘の結果を、実はこっそり新しい教材として
公開していたりします(笑)。

結果、というか、過程そのものを公開、と言った方が正しいでしょうか。

その教材の紹介は

http://www.thealchemyofintelligenceorder.com/letter/mgfd.pdf

です。

読む場合は右クリックで保存してください。

あまりに忙しくてメルマガで公募するのが大幅に遅れ、
すでに第一回目は配布してしまったのですが、もし上を読んで
興味を持っていただけたら

https://55auto.biz/alchemy/touroku/f_me.htm

からお知らせください。

もちろん講座自体は初回から配布いたしますし、この価格は、
さすがに驚く人が多いのではないかと一人ニヤける毎日です
(実際、思うツボ的に「驚きすぎました」という感想をいくつも
もらいましたが 笑)。

僕が久しぶりに「基礎」を語ります。

しかも、あらゆる意味で「気軽に」受講できるのに
レベルは落とさない。

フォレ○ト出版の本読む暇とお金があるなら、こっちの方が
未来を救いますよ、実際。

フォレス○出版もね、5分くらいの息抜きにはいいのですが、
まず脳みそが鍛えられないですから、てかむしろ一定以上読むと
鼻から脳みそたれてきてしまいますから、そちらのファンの方には
ですね、たまには僕の教材もいいよ、と言っておきたいと思います(笑)。

ではでは、今回はこの辺で。

質問や感想などがあればこのメルマガに返信してくださいね。

ありがとうございました!

木坂