〇〇さま

ども、こんにちは、木坂です。

今回ですね、Consulting Master Classという一連の講座に
参加してくれている方から面白いメールをいただきまして、
それに関してちょっとお話しようかなと思っております。

この講座は、なんていうか、

「さあ皆さん変態になりましょう」

というスローガンの下に集った変態予備軍の人たちが
日々無駄な勉強を好き好んでするという、実に変態的な
講座なのですが、なかなか感心するというか、ちゃんと
勉強しているのねというか、そんなメールをもらったんです。

前回のメルマガに関連して、なので鉄は熱いうちに打てとばかりに
早速メルマガにしてみました。

「不安」や「自信」に関して非常にわかりやすくまとめて
くれているので、参考にしてみてください。

ふたつ目の記事は、僕の戯言です。

暇なら読んでみてください。

ただ、1と2は、実は関連しています。

特にConsulting Master Classを受講している人。

その関連に気がつかなければ除籍です(笑)。

ヒントは、現代人、相対主義、Dasein、解釈学的循環、
などでしょうか。

これらを手がかりに、頑張って除籍されないよう
復習をしてくださいませ。

ちなみに、次回の課題にも関係していますよ。

あと、連絡がひとつあります。

興味があれば読んでみてください。

ではでは、早速いきましょう。

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目次

1.不安なイチロー。

2.筋トレしながら幸せについて考えてみた。

3.それなりに重要な連絡。

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1.不安なイチロー。

タイトルにしておいてアレですが、イチローが不安の中
生きているのかどうか、は知りません。

会ったことないですし。

でも、個人的に感じるところでは、彼は不安の中生きてると
思います。

それは、プレッシャーなどとは違った次元の不安です。

自分で自分に課している不安、とでも言いましょうか。

あくまでも僕がそう感じるだけですので正しいかどうかは
わかりませんが、結構自信はあったりします。

それは、前回のメルマガでも説明したとおり、病的に
努力をしている人の背後には、必ずと言っていいほど
不安が潜んでいて、それを前向きに活かしている、という
僕の信念があるからです。

これは、厳密な意味では僕の経験や感覚を根拠にした
見解だったのですが、僕のセミナーに毎回遠路はるばる
やってきてくれる方がこんなメールをくれました。

>>
>> 今回のメルマガの後半「モチベーションと(以下略)」
>> についてなんですが、個人的に面白い発見がありました。
>>
>> 木坂さんがメルマガに書いていた
>>
>> 「人より不安があるから努力するんです」
>>
>> という旨の発言って、もしかしたらエマーソンの言っている
>> 人生的(ビジネス的)成功の要素と結びつくんじゃないか、と。
>>
>> 図にしてみたら
>>
>> 【不安】 → 【努力】 → 【自信】
>>  ↑              ↓
>> 【孤立】 ← 【行動】 ← 【勇気】
>>
>> こんな感じです。
>>
>> 不安があるから努力する。
>>
>> 努力するから自信が持てる。
>>
>> 自信があるから勇気が湧く。
>>
>> 勇気が湧くから行動(実行)出来る。
>>
>> 行動するから孤立する。
>>
>> 孤立する(Be First,Be different)から不安になる。
>>
>> 自信から勇気への転移が若干飛躍している気がしますが、
>> 大まかにこんな循環になってるんじゃないかと思いました。
>>
>>
>> もう1つ、こんなのもあります。
>>
>> 【不安】 → 【現実逃避】
>>  ↑         ↓
>> 【能力低下】 ← 【怠慢】
>>
>> これは典型的な悪循環の形です。
>>
>> 木坂さんがメールに書かれていた「不安を消し去る」
>> ということをやるとこうなってしまうのではないかと。
>>
>> こうやって見ると、結局のところ現実に立ち向かうか、
>> 現実から逃げるか、成功するかしないかって
>> それだけの違いかもしない、なんて生意気なことを
>> 思ってしまいます。
>>

ああ、僕の説明とは違って実にすっきりまとまっていますね(笑)

僕の話を理解する。

エマーソンの話も理解する。

そして、エマーソンの話と僕の話をくっつける。

さらにそこから、若干ではあるけれども、広がりを見せている。

つまり、新たな「知」が創造されている。

こんなことが、起こっています。

このような現象を起こすためには「自ら手に入れた知識である」
という条件を満たす必要があって、例えば

「誰かから教えてもらった知識」

ではダメなのです。

ここに、いろいろ「教わって」はいるのに結果を出せない人と、
いろいろ「学んで」いるがゆえに結果を出していく人の
大いなる分岐点があるように思いますが、それについては
今は割愛。

今は上でまとめてくれたふたつの循環の図に集中するように
してください。

そして最後の

>> こうやって見ると、結局のところ現実に立ち向かうか、
>> 現実から逃げるか、成功するかしないかって
>> それだけの違いかもしない、なんて生意気なことを
>> 思ってしまいます。
>>

という部分。

ここに注目してみましょう。

この手のことは、いろんなところで言われていますよね。

最終的にはやるかやらないかだ、的な。

聞き飽きている人もいるのかもしれないですが、でも
こうして図にして説明してもらうと、なんだかちょっと違って
聞こえたりしないでしょうか?

今までの理解が、なんとなくの理解で、実は「腑に落ちる」という
ところまではいってなかったんじゃないか、とか。

もちろん、上の図でも腑に落ちない人もいるかと思いますが、
その人はまた別の角度から理解しないといけないのだと思います。

理解というのは決して唯一の方法や道があるわけではなく、
それこそ無数にあるのですが、自分なりの道を見つけること、
それが、本当の意味での「理解」なのです。

さて。

ここで少し前回のメルマガを見直してみてほしいのですが、
僕が前回言った「不安が努力を生む」という結論は、

「基本的に現代人は不安である」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

という前提からスタートしています。

それは自覚的か無自覚的か、という区別を必要としない、
ある意味で存在論的な不安です。

要は、生きてるだけで不安、生きてるからこそ不安、
ってことです。

現代人は、そーゆー生き物として生まれてくるんだ、と。

ですから、上で登場した循環図は、ふたつとも「不安」から
スタートしているんですね。

僕は、「不安」というものを、現代人の先天的な属性の
ひとつとして数えています。

なぜ先天的であるとまで言い切れるのか、は、また機会があれば
お話しますが、いずれにしても、この「不安」をスタートとする
循環から、イチローとて抜け出すことはできない。

なぜなら、彼も現代人だからです。

不安な存在として生まれ、そこからスタートし、それを
ロイター板のように「利用して」あのような結果を出している。

結局、成功できていない人との違いは、不安に押しつぶされている
人との違いは、それをうまく手なずけているかどうかなのです。

不安が大きければ大きいほど押しつぶされそうになる圧力は
強くなるけれど、その分反動として高く飛ぶ可能性も、飛躍的に
高まる。

その意味で、多分、イチローの抱える不安は、一般人には
到底耐えることのできないものだと思います。

だからこそ、あんなに高く飛ぶことができるんですね。

そしてここに、僕がいわゆる「ポジティブ万歳」みたいな
主張が嫌いである最大の理由があるのですが、それを話し出すと
長くなりすぎるので今は省略。

んで。

その話はまたの機会に譲るとして、今回の話でとにかく
わかってもらいたいことがふたつあります。

まず第一に、そもそも現代に生まれたのであれば、
不安で当然であるということ。

やることなすこと全て不安で、怖くて、時に萎縮してしまう。

怖いから小さくまとまってしまい、大きな挑戦ができずに
悶々とし、自分に自信がなくなっていく。

んなもん当然なんだと理解してください。

それは、別に心が人より弱いからとか能力が劣っているからとか
そういった理由でそうなるんではなく、ほっといたら誰しも
そうなるもんなんです。

そのように生まれてきているわけですから。

そして第二に、そうならないために大事なのは、その不安と
どうつきあっていくか、どう向き合っていくかであるということ。

不安などネガティブな感情を否定するのではなく、うまく手なずけ、
それを利用して成功の循環に入ること。

それこそが、成功への第一歩なのだ、と。

このふたつです。

巷に垂れ流されているポジティブシンキングというのは、
本質的に大事なものを見失っており、それを実践して
僕らが成功の循環に入れる可能性はかなり低いと思います。

ネガティブなものを「否定」するというネガティブなところから
スタートする「ポジティブ」シンキング。

上の循環図で言えば、後者の、失敗する人の循環に
入るのがこのパターンなのです。

もしこの説明でまだ「無批判なポジティブ信仰」のおかしさに
気がつかなければ、成功への道はなかなか険しいかもしれません。

まあ、それはともかくとして、奇特な人がせっかく上のような
わかりやすい図にまとめてくれたわけですから、うまく利用して、
是非とも成功の循環に入っていってほしいと思います。

僕にできるのは、道筋を示すことだけで、その道を歩くかどうかは、
各人が決めること。

この話が、道を選ぶお役に立てれば幸いです。

2.筋トレしながら幸せについて考えてみた。

前回書いたですね、不安に関する記事が比較的好評というか、
共感を得たようなので、調子に乗ってそれ系のテーマで
今回はお届けしております(笑)。

ひとつ目は、不安について書きました。

ふたつ目は、幸せについて書こうと思います。

とは言っても、例の「ふわふわ」した感じの議論には
ならない、なるはずがない、ので、そーゆーのを
期待している人は完全に期待はずれだと思います。

毎度すいません。

しかしながら、「ふわふわ」しないにもかかわらず、結論的には
「生まれてきただけで奇跡なんです!」的なものになっているのが、
人によってはなかなか興味深いところでしょうか。

そーゆーの興味ある、という場合は、どうぞごゆるりと
お楽しみくださいませ。

さて、幸せです。

なかなか簡単そうで実は難しいのが、この幸せというやつ
ではないでしょうか。

今が幸せか。

そう言われてみればそうかもしれないけど、でも不満もあるし。

不満はあるけど、まあそれなりに満足しているから幸せな気も
するし。

考え始めると、どっちともつかない感じになっていくのが、
この幸せというやつなのです。

最近の趣味である筋トレをしていると、なぜかふと
こんなことを考えてしまう自分がいます。

なぜ筋トレ中なのかは、全くわかりません。

ふと、「こうして筋トレしている自分って、幸せなのだろうか」
みたいなことを考えてしまうんですね。

キモい、と言われれば、多分そうなんだと思います(笑)。

それはさておき。

少し考えを進めてみましょう。

グレゴリー・クラークというカリフォルニア大学の
経済学者、と言えばいいのかな、とにかくそんな教授が
いるのですが、彼は著書の中でこんなことを言っています。

「どんな社会でも、金持ちは貧乏人より幸福である。
しかし、リチャード・イースターリンが1974年に初めて
論じたように、1950年以降の経済先進国では、国民全体の
所得の急増は、幸福度の上昇につながっていない。

たとえば、日本では1958~2004年にかけて、人口
一人当たりの所得はおよそ7倍に増えたが、国民が感じている
幸福度は、上昇するどころか、むしろ若干低下している。

人間の幸福度が、自分の生活の絶対的水準ではなく、
他の基準的な集団と比較した相対的水準によって決まっているのは
明らかだ。

所得が増え、大きな家を買い、高級な車に乗れるようになれば、
一人一人はもっと幸せを感じるだろうが、それは所得が自分より
少なく、みすぼらしい家や車しか手に入らない人がいればこその
幸福感なのである。

お金で幸せを買うことはたしかにできるが、その幸福はほかの
誰かから移転されたものであり、集団全員がより幸せになった
わけではないのだ。」

(『10万年の世界経済史』より抜粋)

どうでしょうか。

経済の本にもかかわらず、「幸せ」ということに関して、
何がしかを語っていますね。

僕は別に、ここで「物質的には豊かになったが心は貧しくなった」
みたいなどーでもいいこと(=話すに値しないこと)をわざわざ
お話したいわけではありません。

注目したいのは、

「人間の幸福度が、自分の生活の絶対的水準ではなく、
他の基準的な集団と比較した相対的水準によって決まっているのは
明らかだ。」

という部分。

ここ、さらっと読み飛ばしていないでしょうか。

ここを見逃すと、最後の段落の「その幸福はほかの誰かから
移転されたものであり~」というところを、誤解します。

おそらく、ですが、マルクス的な搾取の構造を思い浮かべて
しまうでしょう。

誰か(=労働者)が持つ富(労働力)を搾取し、自分の富を
増やす、的な。

しかしここでクラークが指摘しているのは、マルクスのような
唯物的なものではなく、もっと概念的な話。

クラークは、

「人は、自分ひとりで幸せを決める(=感じる)ことができなくなった」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

という、ある意味でショッキングな指摘をしているのです。

もっと乱暴に言ってしまえば、現代人が感じることのできる
幸福とは、他人と比較した上でのものでしかなく、つまり、
広い意味で他者に対する優越感でしかない、と。

自分の内なる感性や、感動し幸せを感じる心といったものを失い、
常に周りをチラチラ伺いながら、「それっぽい」判断をするしか
なくなってしまった、と。

そう指摘しているのです。

これが事実だとするなら、このこと自体が、僕には不幸であるように
思われます。

とは言え、誤解のないように言っておきますが、そもそも僕は
完全に自律した人間とか、一人で生きている人間とか、
そういった思考実験上の人間像は想定していません。

金八先生ではないですが、人と人の間が人間なんですね。

「ヒト」と「人間」の差はそこにある。

一応その出発点は受け入れています。

だから、

「幸せってのはさあ、自分ひとりで決めるものなんだよ!」

なんてラディカルなことも考えてはいないんですが、
しかし同時に、

「完全に誰かに決めてもらう」

ようなものでもないと思っています。

さっきも言ったように大事なのは「間」ですから、結局
「自分と他者の間」が大事で、つまり「自分」も「他者」もしっかり
あることが大事で、幸せというものを考える際にもそこが重要に
なるのではないだろうか、と。

「自分はある、でも他者との関係も重視する」

このような姿勢で幸せは定義付けられるべきではないだろうか、
と思うわけです。

ここでちょっと先に進む前に、簡単にハイデガーという人の思想を
紹介させてください。

歴史上最高に難しい哲学書ベスト5とかを選んだら、
ほぼ確実にハイデガーの『存在と時間』は入ってくると
思いますが、研究者が聞いたら怒り狂うんじゃないかっていうくらい
乱暴にキー概念を説明します。

それは、DaseinとDas Mannという概念です。

それぞれ「ダーザイン」「ダスマン」と読みます。

これらは、どちらも僕ら「人間」を表す概念ですが、意味が
異なります。

ハイデガーの人間についての思想を理解するためには、

「いま、ここ」

という概念が不可欠になります。

先ほどチラッと言ったように、普通僕らが「人間」って
何の気なしに言ったときにその言葉が意味しているのは、
何の制約も受けない、抽象的で実体のない人間です。

ちょうどホッブズやデカルトやルソーが考えた人間像と
同じようなものです。

人類みな兄弟、じゃないですが、世界中の誰にでも
当てはまるような、普遍的な人間像を考えます。

「人間とはこーゆーものである」と大上段から語る感じとでも
言えばわかりやすいでしょうか。

しかし、ハイデガーはそう考えない。

人間は、限りなく「有限」の存在であって、世界中の
誰にでも当てはまるとか、そんな「無限」の人間を考えても
意味はないんだ、と。

有限なんだから、有限なところからスタートしろ、と。

有限なものは、あくまで有限の中で把握するよう努めるべきだ、と。

そう考えるわけです。

ハイデガーにとってその「有限さ」を端的に示すのが
「いま、ここ」という概念なのです。

つまり、時間と、場所。

人間は、ある時間のある場所にしか存在することができない、
というある意味で当たり前のことをハイデガーは指摘したんですね

僕が2009年7月16日、東京にいながら同時にアラスカに
存在することはありえない。

そんな当たり前な指摘です。

そんなことをあえて指摘して、その書が歴史を超えて残っている
ということは、それまでの哲学がそんなことを忘れてしまっていた、
ということでもあるのですが、とにかく、ハイデガーは人間を
「いま、ここ」という制約の中で把握することに努めたわけです。

で、その「いま、ここ」ですが、これが究極的には
何を意味しているかと言えば、それは

「人間は、いつか必ず死ぬ」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ということです。

時間的な制約を受けるということは、いつか人生が「終わる」
ということであり、場所的な制約を受けるということは、どこかで
人生が「終わる」ということであり、それはつまり、人間はいつか
どこかで必ず死ぬ、ということを意味します。

いつなのか、どこでなのか、はわからない。

もしかしたらこのメルマガを読み終わったら大地震が起きて
家が倒壊して死んでしまうかもしれない。

普通にあと何十年後かもしれない。

でも、絶対に死はやってくるわけです。

ハイデガーは、その枠の中で人間を考えるんですね。

そして、その「死」というものをはっきりと自覚的に認識しながら
「いま、ここ」を精一杯生きている人間。

それをDaseinと呼びました。

逆に、ただなんとなく毎日を生き、日々同じようなことを繰り返し、
明日がほっといても勝手にやってくると錯覚してダラダラ生きてい
人間をDas Mannと呼んだのです。

もちろん、ハイデガーはDasein的な生き方を志向しています。

これをふまえて、最初の引用を思い出してください。

一体僕は何を思って不幸であると表現したのか。

それは、このハイデガーの哲学をふまえるとすぐにわかると思います。

グレゴリー・クラークが指摘したのは、端的に言えば

「世の中みんなDas Mannになった」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ということですが、これがそもそも不幸なのだ、ということです。

Daseinは、常に「死」を自覚しています。

僕ら人間には、「いま、ここ」しかないということをよく
理解している存在です。

ですから、存在に対する素直な驚き、感動を感じることができる
ような存在でもあります。

ちょうどゴッホが「どこにでもある」「ありふれた」ひまわりに
感動して絵に描いてしまったように、何かが「いま、ここ」に
存在するというのは、ただそれだけで驚きと感動の対象である、と。

なぜなら、そこにそれが存在していなくても別に構わないし、仮に
存在していたとしても、その存在は有限なもので、いつ消えて
なくなってしまうかもわからないものだからですね。

だからこそ、他ならぬ「いま、ここ」に存在しているということは、
それだけで奇跡的なことですらあるんだ、と。

それを認識して生きているのがDaseinであり、あるべき
人間の姿である。

ハイデガーはそう考えていたはずなのです。

ということは、つまり世の中がみなDas Mannになってしまった
ということは、その驚きや感動を一切感じなくなり、無味乾燥で
つまらない人生をただダラダラと生きている、ということになります。

毎日が同じことの繰り返しに見え、自分や家族や友人たちが
そこに存在していることが当然だと錯覚し、何の感情も抱かず、
ただエゴを吐き出して生きながらえるだけの存在。

死という必ず訪れるものを、「ひとごと」ではなく自分のこととして
強く受け入れ、「いま、ここ」に使命感を持って力強く生きていくといった
あるべき生き方が、できなくなってしまった人間達の群れ。

なんとなく「今日は死なないだろう」「明日も死なないだろう」
の連続であらゆることを先延ばしにして、無為に過ごす日々。

「親孝行、したいときに親はなし」なんて言いますけど、それは
まさにこのような現状を指摘した一例だと思います。

親孝行に限らず、何かするなら、「いま、ここ」でやれよ、と。

ハイデガーは、そう僕らに語りかけているように思うのです。

ちゃんと伝わったかどうかちょっと自信はないのですが、
僕がここで言いたかったのは、別に、優越感がよくない感情だとか、
そんなものを「幸福」と感じる僕らは貧しい、不幸だ、などといった
表面的でくだらない話ではありません。

そもそも僕らが生きているその本質において、クラークが指摘した
ような、Das Mannとしての人生は、とても「不幸」だと思う、と。

「いま、ここ」に何かが存在し、他ならぬ自分が存在し、
家族が存在し、友人が存在し、それら全てに新鮮な感動と
驚きを感じるDaseinこそが、本当の意味での「幸せ」を
感じることができる人間なのではないか、と。

そういうことなんですね。

もちろん、Daseinとしての生き方は、今の僕らにとってとても
難しいものであることは間違いありません。

科学や医学が進歩し、死というものがとても遠いものになり、
少なくとも日々実感することはできなくなってしまった。

であれば、Daseinとしての基盤が崩れてしまっても、仕方のない
ことなのかもしません。

僕だって、Dasein的な生き方なんて、できてはいない。

だけど、日々少しでも意識して生きていくことが大事なんじゃないかなと
思うんです。

「ふわふわ」系の人たちがよく

「生まれてきただけで奇跡なんです!」

みたいなことを言いますが、それは実は一面では正しいのです。

ハイデガーも、まあちっとも「ふわふわ」はしてませんが、
同じ指摘をしているわけですしね。

生まれてきただけで奇跡、とふわふわ思うもよし、ハイデガーの
ように重厚に思うもよし、どちらにしても大事なのは

「いま、ここ」

なんだ、ということです。

「いま、ここ」という制約を受け入れない限り、強く自覚
しない限り、人は「幸せ」という感覚を得ることは難しいのだと
思います。

そう言えば大昔、僕が配布したセミナーの音声で東山魁夷の言葉を
紹介しました。

持っている人は、覚えているでしょうか。

「平凡なものを緻密に見れば、非凡なものが見えてくる」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

という言葉です。

知らない人、忘れた人のために簡単に説明しますが、魁夷は、
母を喜ばせるために大人になったら偉い人になる、と思い続けていた
僕とは違うとてもいい子です(笑)。

次第に彼は画家になりたいという願望が強まり、現在の
東京芸術大学日本画科へ入学を果たします。

家族のためにも早くいい作品を描きたいと焦ってはいたのですが、
友人たちが華々しく脚光を浴びる中で彼の作品はなかなか評価を得られず、
絶望に暮れる日々。

そんな中、彼は終戦近く、召集を受けます。

爆弾を抱え、敵陣へ飛び込む絶対的に希望のない訓練の合間に、
熊本城へと走らされる魁夷。

自らの死を目の前にして眺めたその時の風景。

彼の心には今までになかった感動が湧きあがったのです。

「・・・どうしてこれを描かなかったのだろうか。今はもう
絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったというのに・・・」

汗と埃にまみれて、彼は泣きながら走り続けたと言います。

「死」という、「いま、ここ」という有限性をはっきりと自覚したとき、
まさにそのときに、彼はDaseinになったのです。

Daseinとなった彼の眼には、今まで幾度となく見てきたはずの、
ありふれていて、平凡極まる世界が、奇跡的で、美しく、
また非凡なものとして映ったのですね。

「平凡なものを緻密に見れば、非凡なものが見えてくる」

緻密に見る、とは、ただよーく見るという意味ではなく、
その前提として「Daseinである」必要があるというのが、
今の僕らにはわかります。

つまり、魁夷のこの言葉は、ハイデガーをふまえないと
本当にはわからない。

彼はまた、こう心の中で語りました。

「こんなにも美しい風景を見たであろうか。おそらく、
平凡な風景として見過ごしてきたのにちがいない。
もし、再び絵筆をとれる時が来たなら・・・私はこの感動を、
いまの気持ちで描こう。」

(引用・参照 http://www2.plala.or.jp/Donna/kaii.htm

この魁夷のような生き方こそが、このような気持ちで日々生きること
こそが、「幸せ」と言うにふさわしいのではないかな、と。

Das Mannとして無為に過ごすより、Daseinとして一瞬一瞬を
思いっきり生きることが幸せと呼ぶに値するのではないかな、と。

そう考えると、筋トレで燃え尽きてる自分って、案外幸せなのでは
ないだろうか、なんて思ってみたり。

僕はそう思うんですが、あんまり共感されなかったら、ちょっとだけ、
寂しいかもなあ(笑)。

3.それなりに重要な連絡。

18日の土曜日、正午くらいに多分今年最後になるであろう僕からの
新サービスの連絡をします。

大昔にチラッと言及した、

「高校生でもお小遣いで参加できる企画」

です。

先日先行募集を400人くらいの方に連絡したら、200人以上の
方が申し込んでくれました。

大体6割くらいの申し込み率だったと思います。

なので、まあ価格的にはもちろんとして、いろんな面で
期待していてくれて大丈夫です。

僕がこうやって公開日時を事前に連絡するのは、実は結構
珍しいことなんですが、今回の人数制限は比較的早くに
埋まってしまいそうなので、一応お知らせしておくことにしました。

おそらく今年最後になるというのは、僕の時間的な問題です。

この企画がスタートしてしまうと、単発のセミナーなど
開催する余裕がいよいよなくなってしまうと思うんですね。

なので、もし興味があれば、18日の正午ごろをお楽しみに
していてください。

ただ、僕が調べたところ、メルマガ配信の時間は最大で
4時間程度ラグが出ます。

つまり、最高に遅くて、到達するのが夕方くらいになってしまう人も
いるかもしれない、ということです。

こればっかりはどーしよーもないので、ご容赦を。

計算上18時までには全員に届くはずなので、そのあたりまでは
人数制限は考えなくて大丈夫です。

19時くらいに集計して、人数オーバーしているところから
締め切ります。

まあ、そんなに早くに埋まるかどうかは全くわかりませんが、
先行募集の勢いを見るとありえるかもな、という気もしますんで、
一応お伝えしておきました。

ではでは、今回はこの辺で。

質問や感想などがあればこのメルマガに返信してくださいね。

ありがとうございました!

木坂